某役者学校?の授業の一環で作られた映画なのでほとんどの出演者が学生さんですが全然そんな気がしないくらいの出来。白石監督ファンは必見です。 殺人ワークショップ [DVD] 関連情報
オリンピックで銀メダル、世界選手権で優勝1回。記録だけをみれば、それほど傑出した選手ではない。が、彼女はフィギュアスケートの歴史を変えた。オリンピックで金メダル、世界選手権で3〜4回優勝くらいの印象度のある選手だった。 5位だった1988年のカルガリーオリンピックで、彼女は金メダリスト以上の拍手をもらった。全観客がスタンデイングオベーションを送った。エキシビションでは最終滑走の”オオトリ”を踊る。「みどりが世界一の演技をしたことの証明だった。」当時、カナダに留学していた女性の言葉が紹介されている。「会場の主役はみどりさんでした。そして会場からの帰り道、カナダ人はみな、優勝したカタリーナ・ヴィットではなく『ミドリ・イトウ』の話題で持ちきりでした。その時、私がどんなに日本人であることを誇りに思ったことか。不安だらけの海外留学だった日々を、私はあの演技に勇気づけられ過ごすことができたんです」。「スポーツを通して生きる勇気を与える。それこそ、スポーツのもっとも美しく価値のある瞬間だろう。みどりの演技には、その価値があった。」 昔のフィギュアスケートは、コンパルソリー(氷上で図形を描く競技)とフリースケーティングとの複合競技だった。そのため、フリースケーティングで断トツの1位であっても優勝できないことが多々あり、成績と人気が一致しないことが多かった。(1972年の札幌オリンピックで一番人気だったのは、銅メダリストのジャネット・リンだった。)ジュニアの世界選手権で、みどり選手はSPでもフリーでも1位でありながら、総合では6位(12歳)と3位(14歳)だった。当時の配点は、コンプルソリー3割、SP2割、フリー5割だった。 みどりの演技は、コンパルソリー廃止への潮流を後押しすることになる。翌年(1989)の世界選手権では、苦手なコンパルソリーの比重が小さくなったこともあり、トリプルアクセルを決めて優勝。「この後22年たった今でも、『6種類の3回転ジャンプを1つのプログラムで成功』した女子はひとりもいない。その技術レベルの高さは、人間の想像力を超えていた。」 現在の採点法がみどりさんの時代にあったら、と思うことがよくある。ジャンプのGOEで+3がつくことはほとんど(皆無といっていいほど)ないが、みどり選手のジャンプは、+3がもらえる質だった。数年前、久しぶりに1988〜1990年頃のみどり選手の演技を見て、アクセルジャンプとルッツジャンプの高さと切れの良さに仰天した。ブライアン・オーサー(サラエボ、カルガリー両オリンピックの銀メダリスト、キム・ヨナの前コーチ)も言う。「ミドリのジャンプは、男子のジャンプよりも跳び出す勢いがあって凄かった。それに小さなミドリが、腰の高さくらいまで跳ね上がるんだから、どうやって空中でコントロールしているのか…。僕たちにも不思議だった。(略)でも当時の採点よりも、今の採点の方が、更に彼女の点は高くなるだろうね。なんといっても、ジャンプの飛距離や切れ味や高さは、当時はちゃんと点数に結びついていなかったんだ。だから今の採点法だったら、ミドリのジヤンプはどんな得点が出たのか、想像するだけで怖いよ。」 1992年のアルベールオリンピック。「国民の期待を一身に背負う生活は、尋常なプレッシャーではなかった。カルガリーオリンピックでは、満面の笑みで心から楽しそうに滑っていたみどりの、こぼれるような笑顔は見られなくなっていた。」多くのスター選手がいる今と違って、世間の注目はみどり選手一人に集中していた。プレッシャーに押しつぶされて、OP(現在のSP)で失敗。自力優勝がなくなった。「順位にこだわらなくていいんだ、私の演技をしよう。そして、私が一番やりたいこと、オリンピックで初めてトリプルアクセルを決めて、レジェンドになってやろう」と決意して臨んだフリー。最初のトリプルアクセルで転倒するが、後半で成功。「『1本目は成功させなきゃ、と思っていました。でも2本目は身体が勝手に動いていました』。自らの力で、呼び寄せた最後のトリプルアクセル。みどりは表彰式で嬉しそうに銀メダルを見つめた。一番ほしかったものは金メダルではない。自分だけのトリプルアクセルを跳びたかったのだ。その笑顔は、安堵に満ちた笑顔だった。」 引退後、伊藤みどりはアイスショーに出演、プロスケーターの道を歩み始める。レポーターや解説の仕事もするが、生真面目な性格がわざわいして、自分に合格点がつけられない。考え過ぎてコメントが出せない。みどりは孤独だった。「完璧主義者、向上心、集中力、生真面目さ。選手時代はすべてプラスに働いていた彼女の個性は、一般社会で再出発するには強すぎて、彼女の足かせになった。」10年後、アイスショーからも身を引く。 天職を探すみどりに持ちかけられたISUアダルト競技会。みどりは「大人が趣味として滑るスケートの世界を、日本にもっと広めたい」と、出場の意義を見出す。国際スケート連盟(ISU)主催の公式戦でありながら、日本では全く知られていないこの大会で、みどりは心から楽しんで滑った。「スケートを楽しむこと。楽しんで滑ること、それができた!」。「やっぱり私、スケートが好き!」みどりさんが笑顔でそう言えて、本当に良かったと思う。 みどりさんの消息を長く聞かなかったので、みどりさんの笑顔を見ることができて、とても嬉しかったです。ただ、小さなミスが数箇所あるのが、気になりました。1988年11月のNHK杯が12月になっていたり、1989年3月の世界選手権が2月になっていたり、引退後、復帰した時のみどりさんは26歳だったのに27歳になっていたり、1936年のガルミッシュ・パルテンキルヘン大会に出場した稲田悦子選手は12歳だったのに、13歳になっていたり…。また「先駆者」を「フロンティア」としていますが、「パイオニア」では? それらがなければ、☆5つでした。 伊藤みどり トリプルアクセルの先へ 関連情報
情熱がなければ伝わらない!アタッシェ・ドゥ・プレスという仕事 (NB Online books)
ファッション業界の舞台裏を垣間見れてとても参考になった。生き馬の目を抜くと言われるファッション業界で活躍するには、伊藤美恵さんみたいなテンション↑↑でないと務まらないのがよくわかった。プロ意識とミーハーさのバランス、それに、自己主張して突き進むパワーを備えることが重要なんですね。 情熱がなければ伝わらない!アタッシェ・ドゥ・プレスという仕事 (NB Online books) 関連情報